毒になる親をもつ子どもだった人におすすめしたい本
毒親育ちの私は、時々無性に毒親やAC(アダルトチルドレン)関連の本が読みたくなります。
今回この本を手に取ったのは、タイトルに惹かれたから。
「母さんがどんなに僕を嫌いでも」
その理由は、私も母に疎まれている、嫌われていると感じていた時期があったからなんです。
自分自身が子どもを持つ母親になった今でも、あの時の母の、あの態度はなんだったのか、冷たくされたのはなぜだったのか、知りたいという気持ちが消えない。
そんな私がこの本を読んでどう感じたかを書いてみました。
「母さんがどんなに僕を嫌いでも」本の紹介
著者:歌川 たいじ
発売日: 2018/6/30
「母さんがどんなに僕を嫌いでも」あらすじ
うつくしい母と、粗暴な父、姉との4人家族の主人公たいじ。
母は息子の容姿が醜いからなのか、幼いたいじのことを邪険に扱う。
成長し、家族と離れて暮らすようになったたいじは、また母に会いたいと手紙を書きはじめたが、返事は来ない。
そんなある日、ついに再会の時が来て…!
「母さんがどんなに僕を嫌いでも」を読んできつかった理由
「母さんがどんなに僕を嫌いでも」を読んで、私にはとてもきつかった部分がある。
私の母は、この本の主人公たいじの母のように絶世の美女でもカリスマ性も無かったけれど、子どもへの接し方には似たようなところがあったからだ。
私の母は、とにかく、私と妹への接し方に差をつけた。
買い物や出かけるときには妹だけを連れて行き、私のことは留守番させた。
「まだ小さい妹のことは置いていくわけにいかないからかもしれない」
と少女の頃の私は思うようにして自分を納得させていたのを今も覚えている。
母は、大柄で太り気味だった私のことを、着るものがない、何を着せても似合わないと言ってため息をついた。
そのたびに私は傷ついた。
妹にはピンクやリボンのついたかわいい服を買い与えた反面、私の服は
「子供服ではサイズが無いから買いに行くのが恥ずかしい」
と露骨に感情をぶつけてきた。
一度、母と妹が出かける時に、意地でもついて行ってやろうとしたことがありましたが、あろうことか母は、私を撒いてきました。
刑事ドラマで犯人が追ってから姿を隠しながら移動する、アレです。
そんなにも、連れて行くのがいやなのか。
そんなにわたしが嫌いなのかと呆然とした気持ちを、ずっと忘れられないでいます。
母が私を嫌うことには理由があったのかもしれません。
わが家はいわゆるモラハラ&DV家庭で、父が母に対してひどい仕打ちをするのが日常でした。
そんな父親に、私はとても似ているそうです。
自覚はありませんし、他人から言われることはあまりなかったのですが、母からはとても似ていると毎日のように言われました。
「顔も性格もそっくりね」
そんな風に私につげてくる母の顔が嫌いでした。
この他には、幼かったころには、言うことをきかないといってはトイレに閉じ込められたりもしました。
トイレだった理由は、他に鍵のかかる部屋がなかったからです。
時々は、トイレに入れられない日もあって、そんな時には布団たたきの竹の棒で叩かれました。
叩かれる場所は、お尻だったり頭だったりいろいろです。
私が母にされたことといえば、その程度といえばその程度のことです。
食事も与えられたし、高校にも行かせてもらいました。
しかし、生きているのがちょっといやになる程度には傷つけられたのも事実です。
それは、私の心が弱かったから。
その反面、言うことを聞かない気の強い性格だったから。
見た目が父に似ている上に太って醜いから。
だから、あんなことやこんなことは全部仕方ない。
私がこんなだから。
そんな考え方が染み付いてしまいました。
これはアダルトチルドレンや毒親育ちによくある
「自己評価が低い」
という状態ですね。
今ならわかりますが、当時は自分はどうしようもない欠陥品なのだと本気で思っていました。
この本の主人公「たいじ」も、同じような気持ちを抱いて育ちます。
「母さんがどんなに僕を嫌いでも」感想
「母さんがどんなに僕を嫌いでも」のあとに、どんな言葉が続くのかと考えた。
母さんがどんなに僕を嫌いでも、
「僕は母さんを愛してる」?
「僕は嫌いになれない」?
しかし、そんな予想を軽く吹っ飛ばし、出てきた言葉は
「母さんがどんなに僕を嫌いでも
僕は生きていく」
生きる希望を失いかけた「僕」が崖にしがみつきながら命をつないだ言葉に聞こえる。
自分の子どもを見ていると、無償の愛を与えてくれるのは親ではなく子どもの方だと感じている。
この主人公のたいじと同じく。
それなのに、母親は、こんなにも自分の子どもに残酷になれるものなのだろうか?
私にはわからない。
わからない?
ほんとうに?
今、子どもを持つ母親になって、自分自身には子どもを疎ましく感じる気持ちはない。
いや、正確にいうと
「ほとんど無い」
愛しく大切に思う気持ちがほとんどなのだけど、イライラしたときや精神的に参っているときに邪険に扱わなかったとは言えない。
うっとおしそうにしたことも何度だってある。
もちろん、そんな気持ちよりも、かわいい、愛しいの方がはるかに多い。
しかし、それは私の中のバランスが整っているからに過ぎないのではないか?
夫に殴られる日常なら?
ひどい言葉を浴びせられる毎日なら?
今のように心穏やかなはずはない。
その時に私自身が母のようにならなかったといえるのか?
作品中にこんな言葉が出てくる
「親に変わってほしいならばまず自分が変われ。子どもが変われば親も絶対に変わる」
その言葉を受けて、母に手紙を書き続けた「僕」
しかし返事は来ない。
そして、ついに再会の時。
もらった言葉は
「あたしは子どもはふたりもいらなかった」
姉を生んだあとに、後継ぎをとのプレッシャーから妊娠した「僕」を堕胎しようかと本気で考えたとの告白。
それは今までの殴る蹴るを越えた、とてつもない暴力だった。
それから僕は手紙を書くのをやめた…。
この作者の親への思いと対応策は、私のたどってきた道と似ている。
まずは思い切り遠くへ逃げて。
時間をかけて、自分で自分の傷を癒し。
「二度と会わない」という選択を選ばず。
それどころか、親と積極的に関わっていくと決めた。
現在の私と実の両親とは、円満とは決して言えない程度ではあるが、多くのやり取りがある。
そして、私もまた、主人公に与えられた
「ありがとう。あんたを生んでよかった。」というこれに近い言葉を引き出せた。
そして、この言葉で、自分の中の何かが変わったのを感じた。
許したとか、忘れたとかじゃない。
もしかしたら、これが私にとっての復讐の形だったのかもしれない。
それを遂げられたのだ。
自分をボロボロにしてやろうかと自虐的になったことがある。
親を破滅させてやる、殺してやりたいと思ったこともある。
「ほら、不幸せな私を作ったのはあんたたち。見てごらんなさい。」
と見せつけてやりたいと、ずっと、そんな風に考えていた。
しかし、それでは自分の不足した何かが、満たしきれないということがわかった。
これはそんな気持ちを思い出させてくれる本でした。
「母さんがどんなに僕を嫌いでも」は映像化もされています!
主人公のたいじ役は、中野太賀(当時は改名前で太賀)
「ゆとりですがなにか」でのクソ生意気な後輩役が光っていました。
「今日から俺は!」にも出演していましたね。
母親役は吉田羊。
どちらも演技力は抜群ですね!
映像化でがっかりな作品もありますが、これはいけるかな!?
プライムビデオでも見られます!
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